2024.04.25
家康の大樹其の五〜三方ヶ原合戦で家康軍敗走野田城攻めの中、武田信玄急死
「京に風林火山の旗を立てる!」信長は勿論、家康すら目ではない勢いで、家康の三河領を西へ進軍する武田軍2万7千。浜松城に籠城し、武田軍を迎え撃とうとする家康軍1万1千。ところが武田信玄は、この浜松城を無視し、西へ西へと軍を進めます。「馬鹿にするな!」とばかりに、西上する武田軍の背後から、追撃戦に入ろうとした家康軍。ところが武田軍は、家康軍のこの動きをしっかりと察知し、夕刻せまる三方ヶ原台地に、見事な隊列を組んで待ち構えているのです。騎馬隊の馬のいななきも制され、統率の取れた魚鱗の陣構え。「美しい!」と敵ながら家康軍の誰もが感心してしまうのでした。
目次
三方ヶ原合戦での家康の鶴翼の陣
感心してしまった次の瞬間、最前列の小山田隊から、次々に顔面大の石が飛んできました「。い、痛い!」ガキの喧嘩じゃあるまいし。と思いつつも、当たるとかなりの打撃です。ところが家康軍は、後から押し出してくるので、先頭はこの投石の餌食です。先頭集団は「押すな!押すな!」状態。自然と隊列は投石に当たらぬよう横に広がり始めます。(②)
これが後世に「、なぜ家康は、迎撃する敵よりも多くの兵数が必要な『鶴翼の陣』を三方ヶ原合戦で敷いたのか?」と議論百出する陣形になった所以ではないでしょうか?しかも、兵数が多いにも拘わらず、信玄は敵に切り込みやすい「魚鱗の陣」です(③)。更に機動力抜群な騎馬隊を持っています。
兵数で言うとアベコベの陣形です。実は、信玄は過去にこのアベコベ陣形を余儀なくされ、ピンチになった経験があるのです。上杉謙信との一騎打ちで有名な川中島の戦いです。だからこそ、わざと信玄は家康が鶴翼の陣を敷くように投石等で工夫したのではないでしょうか。経験豊富な信玄だからこそ、家康に鶴翼の陣を敷かせることができたのです。さて、武田軍の投石により火蓋が切られた三方ヶ原合戦。状況が良く飲み込めていない家康の各隊ですが、武田の前線軍と交戦を余儀なくされます。
一方、武田軍の後方、真田昌幸、 武田勝頼、馬場信房らの騎馬隊が、台地に縦横無尽に馬を走らせ、家康軍の脇へ突撃。あっという間に家康軍は総崩れ。戦闘開始から2時間も持たず、日没に紛れ、浜松城方面へ散り散りに大敗走となります。
武田軍に敗走し逃げる家康、雲立楠の洞に身を隠す
家康もこの敗走で、馬上で脱糞する程の恐怖に駆られ、浜松城に逃げ込んだ伝承は有名ですが、逃げ切る間の伝承を幾つか紹介させてください。1つ目は浜松八幡宮にある雲立楠です。(①)
敗走した家康が敵の目を逃れるため、この大楠の洞に身を隠したとの伝承があります。大楠は浜松八幡宮の御神木で、源義家が勧 請したと言い伝えられています。 家康は「吾妻鏡」を諳(そら)んじられる程の源頼朝好きとのことですから、当然源家の元祖・義家には高い関心を持っていたはずです。浜松城近くのこの御神木も知っていたのでしょう。
「戦の神様・八幡太郎義家殿、どうかお守りください!」
武田の追手が大楠周辺に到着し、境内に逃げていた家康軍の雑兵を捕え殺害します。家康も「もう見つかる!そら見つかる!」と夜陰の中、楠の洞に身を捻じ込んで震えていました。しばらくすると追手も移動し、境内に人の気配は消えました。
「ふうっ!」
難を逃れた家康は、星の綺麗な夜空を見上げ、義家の加護に感謝を捧げます。するとその時、この楠から瑞雲(吉兆をしめす雲)が立ちのぼったのです。
「おおっ!遠江は信玄の手に落ちたかと思うたが、大丈夫じゃと義家殿が言うておる!」
これが「雲立楠」と呼ばれている所以です。この不思議な出来事の後、家康はこの八幡宮を徳川家の祈願所として崇敬し、浜松八幡宮は徳川家を守護するお社になりました。(④)
もう1つの伝承を紹介します。 逃走中にお腹が空いてたまらない家康は、武田軍に追われながらも、近くの茶屋に飛び込み、
「おい、婆さん、何か食べ物はないか!」
「はいはい、美味しい、この辺りの名物・小豆餅ならありますよ」
「それで良い!早く出してくれ!」
いつ追手に追いつかれるか分からない家康は気が気ではありません。茶屋の婆さんが出してきた小豆餅をほおばると、ヒラリとまた馬上の人となり、馬の尻に鞭を当てると、浜松城へと急ぎ疾走します。ところが、この茶屋の婆さん、なんと疾走する馬より速く走り、半里近く走り、家康に追いつくと
「小豆餅の代金をまだ頂いておりませんが」
「あ、ごめん。忘れておった」
と老婆へ小豆餅代を支払う家康。なんともまあ、間が抜けた話ですね。小豆餅神社は直ぐ近くにあり、小豆餅自体の起源が三方ヶ原の辺りにあるのは事実のようです。しかも本当に南に半里程度の場所に「銭取」という土地名もあります。
家康が鎧だけ脱いだ鎧掛松の伝承
この小豆餅でお腹を下してしまったのでしょうか。家康は我慢できずに、馬上で脱糞との伝承と関係がありそうな名木が浜松城にあります。城内に入る前に、兜は脱がず、鎧だけ脱いで近くにあった松に掛けます。鎧掛松です。(⑤)
城に戻れば当然鎧兜を侍女らに脱がされる訳ですから、色々とバレてしまうのを回避するために、この鎧掛松に掛けたのでは?と、私は妄想しました。色々と調べると、家康は浜松城へ逃げ帰ってきた時、供回りがあまりに少ないので、浜松城の留守居役たちが、「あんなに少人数の一行が殿の訳がない」と誤認して、城内へ入れなかったという伝承もあります。もしかすると、それで城外で家康が鎧兜を脱げば、姿もはっきりするし、なにより敵ではないという意思表示になるので、この松の場所で鎧兜を脱いだのかもしれません。
犀ヶ崖の武田軍、本多一族による攻防戦
家康が命からがら浜松城へ逃げ延びている頃、浜松城付近の犀ヶ崖では、またも勇猛果敢な本多一族による防衛戦が繰り広げられていました。家康軍はこの崖に布で橋を渡したところ、武田軍の多数の武者が、橋が布であることを知らず崖下に落ちたとの伝承が残っています。確かにかなり深い谷になっています。(⑥)
この場所で何としても武田軍の侵攻を食い止めねばと奮戦したのが、本多平八郎の伯父・本多肥後守忠真(ただざね)です。実は平八の育ての親なのです。忠真は殿(しんがり)を買って出ます。この犀ヶ崖の脇に旗指物を突き刺し、「ここからは一歩も引かぬ!」と叫んで武田軍に刀一本で切り込み、家康を逃す時間稼ぎをし、討死を果たしたようです。(⑦)
大河ドラマにも出てきた「飲んだくれ武将・本多忠真」
大河ドラマ「どうする家康」に出てきた本多忠真は、飲んだくれ武将として描かれていました。しかし文献等では根拠が見当たりません。大坂の陣で激戦区となる天王寺茶臼山近くに一心寺という大きなお寺があります。その境内に平八の息子・本多忠朝(ただとも)の立派なお墓があります。彼が飲んだくれだったことは有名で、大坂冬の陣の時に飲酒が原因で敗退する失態をやらかし、家康に叱責される始末。名誉挽回と大坂夏の陣で先鋒を務めるのですが、功を焦ったためか、戦死してしまいます。死に際に、自分の酒癖を悔い、将来酒のために身を誤る人を助けたいと言って事切れたそうです。それ以来、酒封じの神として、酒癖に苦しむ人たちが忠朝の墓に参拝するようになったのです。(⑧)
このお墓の周りの壁には、沢山の杓文字が下げられています。すべて酒封じ祈願が書かれた絵馬であり、忠朝に酒断ちを祈願する人が、今も後を絶ちません。(⑨)
この忠朝との血縁関係があったため、三方ヶ原合戦で殿を務めた本多忠真もその気があったのでは?という仮定で、キャラ設定がなされたのかもしれませんね。
浜松城での家康の空城計
浜松城へ逃げ帰った家康は、孫子36計の1つ「空城計」を適用し、浜松城に迫った武田軍を追い払います。空城計とは、城を守るために用いるのではなく、攻める敵を城内に引き入れる、つまり城を「袋のネズミ」の「袋」にする。そして城に誘い込まれた敵は、伏兵やら隠れ兵やらにより、「袋叩き」にして殲滅するというものです。家康は「全ての城門を開き、松明を門の外側と内側に立てよ!そして全軍、静かに物陰に隠れよ!」と下知します。
実は空城計を真似たところで、武田軍を「袋叩き」にできるとは、家康も考えていません。何故この策をとったのか。彼は「一か八か」にかけたのです。それは、この圧倒的な「負け」の状況では、最大限ガードを固くして城に籠るのが常道です。ところがこれに反して城門を開け放ち、「さあどうぞ入ってください」とばかりのノーガード。これは結構不気味だと、孫子の兵法を熟読している信玄は気づきます。
「空城計であるから不用意に入城してはならぬ」
「では城を囲みますか?」
と家臣団。
「まあこれくらいにしておいてやろう。どうせ浜名湖西側の城、岡崎城までを落とせば浜松城は孤立する」
死期が迫っている信玄。時間との勝負です。浜松城を囲む時間があるなら最初からそうしています。こうして家康の一か八かの賭けが成功するのです。(⑩)
武田軍撤退と信玄の死
三方ヶ原合戦で大勝利した武田軍はそれから西に移動し、野田城を攻めます。(⑪)
野田城は小さな城で、徳川方の守備兵数は五百程度。ここで一つ不思議な現象が起きます。青崩峠を越えてきた武田軍は破竹の勢いで二、三日に一つの割合で城を落とし、三方ヶ原合戦に臨んだのは二か月後の十二月。ところが、その後、この野田城一つ落とすのにまるまる二か月も掛かっているのです。
勿論、野田城が河岸段丘に造られた堅固な城なので、武田軍は穴掘り部隊が井戸の水脈を切るために、延々とトンネルを掘るという気長な戦術を取ったこともありますが、武田軍は、野田城の五十倍もの兵力を有していますし、それまでの進軍速度を考えると、あまりに遅い侵攻です。更に不思議なのは、武田軍は折角落としたにも係わらず、信州の駒場に戻ってしまうのです。そう、信玄急死ですね。様々な説があり、結核、胃がん、肝臓病、甲州特有の地方病等の病死が挙げられております。
他にも信玄狙撃説。これは野田城包囲戦により、穴掘り部隊がトンネルを掘っている期間中に、夜な夜な野田城内で美しい笛の音が聞こえてくるとの噂を聞きつけた信玄が「一度その音を聞いてみたい。」と、包囲軍の中に着座位置を設け、笛の音が聞こえる夜中にそこに座った瞬間、野田城内に居た狙撃兵が信玄を撃ち重傷を負わせ、それが基で信玄が死んだという説です。黒澤明監督の映画「影武者」はこの伝承が採用されました。
いずれにせよ、一五七三年四月十二日、信玄は、信州駒場の長岳寺で火葬され、荼毘に付されました。(⑬⑭)
「大ていは 地に任せて 肌骨好し、紅粉を塗らず 自ら風流」信玄辞世の歌です。意味は以下の通りです。
世の中皆、世間に合わせ生きるのでよい。その中で上辺を飾るような生き方をするのではなく、自分の本心に素直になり、自分らしさを見つけ生きることだ。
ちょっと説教臭いですが、やはりこの歌は信玄らしいと私は思います。
三方ヶ原合戦での圧勝、これは今までの信玄の努力を考えると当然のことなのです。信濃平定の苦労、軍神・上杉謙信と川中島等でしのぎを削ってきた事など、信玄にとって、武田二十四将と最強の騎馬軍団を駆使できる体制を作り上げるまでには並大抵の努力では無かったでしょう。時には家臣団に仕え、時には信頼していた家臣を斬捨てる等、散々苦労した中で、作り上げた経営哲学のようなものが、三方ヶ原の圧倒的な勝利に結実したのです。「本心に素直になる」、これは上に立つ人にとって、簡単なようでかなり難しいことですね。結局、家康もこれが出来るようになって天下人になれたのでしょう。
そして家康は、散々痛めつけられたにも係わらず、この強敵・武田信玄を一生敬うのは、信玄のこの苦労を痛いほど分かるからなのです。この三方ヶ原の合戦から多くのことを信玄から学んだ家康は、この後、信玄のような「野戦の名将」とまで言われるまでに成長します。ご精読ありがとうございました。
TAG
最新記事