2024.04.02
家康の大樹 其の四~家康、清洲同盟のもと武田信玄の猛攻に耐える
桶狭間合戦で、今川義元の先鋒として活躍した元康(後の家康)は、義元討死の報をもって三河の岡崎へ帰ります。義元の息子・氏真は、家臣団の求心力を失い、離反者が急増。元康も今川を離れ、織田信長と同盟を結びます。これがこの後、本能寺の変で信長が死ぬまで、家康がどんなにひどい目にあっても続く清洲同盟。この同盟の下、家康が隣国・武田信玄からの猛攻にどう耐えたのかを描きたいと思います。
目次
今川領侵攻における武田信玄との約定
信長と清州同盟を結んだ家康、今川氏真との敵対が鮮明となります。その中で、「今川領侵攻で手を結ぼう」と家康にオファーしてきたのが甲斐の武田信玄。当時まだ強固な三国同盟(北条・武田・今川)が存在していたにもかかわらず、今川領侵攻を遂げようとするのです。猛反対する信玄の長男・義信を東光寺に幽閉、自害させ、武田家内の駿河侵攻の意思統一を果し、これを開始します。(①)
ただ、信玄が今川領に攻め入れば、北条氏康が「三国同盟破りの信玄、約定を守らぬ信用できない奴」として、小田原城から駿河に氏真救援のために進出してくるでしょう。なので、信玄はなるべく短期で氏真を追い落とさなければなりません。そこで、家康と手を結ぶのです。今川と国を接する家康も今川領は欲しいはず、であれば「遠江は家康殿にあげよう。駿河はワシが取る。」という約定を信玄は家康と結びます。それこそ、家康と信玄で氏真を挟撃するのです。(上図🅐)
武田信玄の画策により戦国大名今川家滅亡
武田軍は富士川を南下し、駿河湾沿いを今川氏の本拠・駿府(静岡市)へ進軍しようとします。氏真は、これを薩(さった)峠で迎撃します。ところが多くの家臣が離反したため、氏真は戦わずして駿府に撤退します。(②)
信玄は今川家の家臣へ内々に裏切るように、侵攻前から手を回していたのです。この家臣団の崩壊は氏真が駿府に戻っても続き、耐えきれなくなった氏真は駿府を抜け出し、遠江の掛川城へ逃げ込みます。遠江は約定通り、家康側の侵攻対象国です。家康がこの城を囲むこと数か月。氏真はついに開城し、奥方(早川殿)の父である北条氏康を頼って相模国へ落ちて行きます。そして戦国大名・今川家は滅ぶのです。
武田信玄との対立
今川家が滅びた後の武田家と徳川家の所領は図🅑のようになります。
信玄と家康の国力には相当な差があります。今川の分捕り領を遠江と駿河で分けて貰えただけでも、家康は大出世です。信玄としては、家康へ与えた遠江はおろか、本拠の三河すら取ってしまいたいという強い欲がありました。しかし、背後の上杉謙信、北条氏康ら、大いなる敵対関係を信玄は抱えています。そこに加えて織田信長や家康までも敵とすることは流石の信玄も避けなければなりません。
信玄は、しばらくは外交努力により家康・信長と良好な関係を保ち、京へ西上という大戦の準備をするのです。そして家康も、本拠を三河の岡崎城から浜松の曳馬城(現・浜松城)へ移します。今後予想される信玄との大戦を意識しての拠点変更という意図もあったのでしょう。余談ですが、曳馬城という城の名前は「馬を曳く(引く)」=「撤退」のニュアンスを彷彿させ、縁起が悪いので、浜松城と改名したのです。(③)
信玄、西上作戦開始
元亀2年(1571年)、北条氏康が死去し氏政の代になると、信玄は北条と再び手を結びます。また、信玄は坊主仲間の本願寺顕如に依頼し、加賀一向一揆を起こさせ、上杉謙信が領国内の一揆鎮圧に専念せざるを得ない状況を作り上げます。
これら東や北の脅威を取り除くと、信玄は、翌、元亀3年10月、待望の西上作戦を開始するのです。信州の南、青崩峠を越えて、遠江へ攻め入る2万5千の武田軍。私もこの峠に上ってみました。よくもまあ、こんな狭くて急こう配な峠を、騎馬隊を含めた大軍が通過することができたものだと、その機動力に感心しました。(④)
峠を越えた武田軍は、浜松城の北の二俣城を攻撃します。(⑤)この時の二俣城攻撃の主力は武田勝頼。力攻めに二俣城を落とそうとしますが、なかなか落ちません。(⑥)「天竜川を背にしたこの城は井戸を掘らず、天竜川から水を汲みあげておるのが分からんのか。水をくみ上げる井戸櫓を壊せば簡単に城は落ちるぞ!」と信玄は勝頼に言います。
「分かっており、あの井戸櫓を壊そうと何度か舟に兵を載せて出すのですが、城からの矢や鉄砲で近づくこともできません。」と言い訳する勝頼。「上流から筏や丸太を大量に流せばよかろう。それを井戸櫓にぶつければ良いのじゃ。」果たして信玄の言うとおり、雨が降って水嵩が増した時に筏や丸太を天竜川に流すと、井戸櫓の柱はへし折られ、水汲み場はいとも簡単に崩壊しました。二俣城は落ちます。
一言坂の戦いの本多平八忠勝「大滝流れの陣」
二俣城を勝頼が力攻めしている時、信玄は浜松城と他の城の連絡を遮断できる位置、天竜川の下流に陣を構えていました。この時、家康は信玄の本陣をこの目で見ようと偵察に出ます。偵察と言っても、国主自らの出馬ともなれば、かなりの規模の戦団になります。家康の全軍八千のうち、三千もの部隊で偵察に出たようです。案の定、武田軍にすぐ察知されます。
「物見か?戦か?そういう半端な行動が命取りだ、家康」ということで、武田軍は周到に作戦を練ります。まず家康らが、西から天竜川を渡り切るまで、武田軍は知らぬ顔。家康は武田方には気づかれていないという甘い認識で、天竜川を渡り、武田軍に近づきます。渡り切った家康軍、待っていた武田軍と遭遇します。「しまった!引けーっ!」と、慌てて退却を開始する家康。ところが、流石武田軍「風林火山」の馬印「疾如風(疾き事風の如く)」のように動きます。武田四天王の一人・馬場信房が、速攻で突撃を開始。(⑦)
家康が撤退しながらの苦しい戦中に見たのは、「侵掠如火(侵掠すること火の如く)」背後に先回りをしようとする武田別動隊。「挟撃される!」と家康が全滅の危機を感じた時、「殿、ここはお任せ頂き、逃げてください。」と申し出たのは、本多平八郎忠勝。(⑧)「平八、宜しく頼む!」と言い置いた家康は、脱兎の如く、天竜川方向へ逃走します。
殿(しんがり)を請負った平八、まず野原に火を掛け、馬場隊を攪乱します。そして攻撃の手が緩んだ隙に坂下に置盾を三段に組み、馬場隊の攻撃を防ごうとします。(⑨⑩)
ところが馬場隊、この置盾を二段まで撃破します。あわや三段目も撃破、平八も「これまでか!」と坂下への退却を開始すると、坂下には信玄の近習・小杉左近の鉄砲隊が一斉射撃を開始し、本多隊の退路を断つのです。元々、殿というのは、かなりのダメージを受けるのは覚悟の上、全滅することも珍しくありません。平八も全滅も覚悟します。
「挟撃だ!このままでは全員討死しかない。俺が皆の命を貰った。これから『大滝流れの陣』で、小杉の鉄砲隊へ突撃!」と言うや否や、「蜻蛉切」という六メートルもある名鎗を馬上で軽々と操って、小杉の鉄砲隊へ斬り込みます。
『大滝流れの陣』と聞いた兵士は皆、顔面蒼白、死を覚悟して鉄砲隊へ突入していきます。
『死ぬ気』で敵に突進していく『大滝流れの陣』。この『死中活あり!』の気魄に圧されて、小杉隊も怯み、道を空けてしまいます。結果、本多隊は大した損害も無く、殿を完遂するのです。
家康に過ぎたるものとは
後日、小杉左近は以下の歌を詠みます。
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」
唐の頭とは中国大陸から輸入したヤクの毛を使った兜です。(⑪)
輸入品なのでかなり高級ですが、当時の家康には身分不相応なものだとの揶揄です。さらにもう一つ身分不相応に持っているのが本多平八郎。武田信玄には勇猛な武将が多々居ましたが、家康なぞ…という意識もあったのでしょう。それほど平八は、家康家臣の中でも傑出した勇猛果敢な武将だったのです。
信玄、家康を無視する
この後、信玄は大井川を北上して二俣城へ向かい、この城を落としますが、峠を越えて信玄が侵攻してからの二か月間、家康は有効な手が打てていません。遠江一円の支配力が弱い家康には負の影響大です。既に北遠江の豪族らは離反しています。領内で獅子の如く暴れまわる武田騎馬軍団。家康は信長への援軍要請を幾度も行っています。
信長が浜松城へ支援に出せた兵力は僅か3千です。それでも信長との連合が整った家康。武田軍が浜松城へ寄せて来ると予測し、籠城戦に備えます。予測通り、二俣城方面から、遠江を南下し、家康の本拠・浜松城へ迫る武田軍。ところが、浜松城直前で急に西に転進し、浜松城の北を、家康らを無視する形で三河方面へ軍を進めます。
「馬鹿にするな!」と家康は憤慨します。このまま浜松城で、去り行く信玄の尻を眺めているだけとなれば、北遠江の離反だけでなく、遠江の豪族は皆家康を見放すでしょう。「浜松城に向かってきた信玄が、『直前で転進』と聞いた時の家康のホッとした顔!」と皆に笑われ、以後は離反者の増加、屈辱のうちに家康は、信長の小さな一家臣に留まることになりかねません。家康の兵8千と信長の援軍3千の併せ1万1千は、なんとしても信玄と戦わねばなりません。
祝田の坂
二俣城で山県昌景(まさかげ)隊とも合流し、2万7千となった武田軍の不可思議な浜松城放置。 「家康、叩く価値無し!」と信玄が思ったからではなく、実はこの頃、信玄の喀血の頻度がかなり高くなってきたのです。
「京の瀬田に風林火山の馬印を立てねばならぬ!急がねば!」と、焦った信玄にとって、家康の浜松城なぞは「捨ておけ!どうせ奴らから挨拶しに来るだろう。囲むのは時間の無駄。」と読んでいたに違いありません。そして転進後、しばらくするとムカデ衆(探索及び伝令部隊)から、「家康ら約1万、浜松城を出て、我々を追撃する気配を見せております。」と伝えられると、信玄はニヤリとします。
「やはりな。」
一方、家康側は、転進した武田軍が三方ヶ原台地の北端、祝田(ほうだ)の坂を下りて浜名湖方面へ向かうとする動きを察知。この時、家康は咄嗟に考えました。
「信玄め!祝田の坂を下る気だな。あそこはかなりの隘路になっているはずじゃ。」(⑫)
「今から出陣して武田軍の背後から襲い掛かれば、あの坂は少人数しか繰り出せないはず。片っ端からのしてやれ!浜松の地の利はワシにある!」と、浜松城を打って出ます。「信玄が祝田の坂を下りきる前に、後ろから斬りつけるのじゃ!急げ!」
三方ヶ原合戦開始
ところが、信玄は家康より一枚上手です。家康の動きを察知した信玄は、全軍に急ぎ引き返すよう指示します。祝田の坂を下りている最中の武田軍は、進軍を停止すると回れ右で、急ぎ三方ヶ原台地へ上り返します。そして約7丁(8百メートル)程、道を戻ると、三方ヶ原の根洗の松に本陣を敷設。2万7千の軍勢を魚鱗の陣で配置し、風林火山「徐如林(徐かなること林の如く)」の体で、家康軍の到来を待ちます。(⑬)
一方、祝田の坂まで一気に走り、追撃戦に入ろうとした家康軍。ところが、祝田の坂の手前で、武田軍がしっかりと布陣しているのを見て、狼狽えます。「祝田の坂を下っているのではないのか?」
夕刻せまる三方ヶ原台地に、武田軍は西日に照らされた赤い甲冑を更に緋色に染めながら、見事な隊列を組んで待ち構えているのです。騎馬隊の馬のいななきも制され、統率の取れた魚鱗の陣構え。「美しい!動かざること山の如し(不動如山)だ!」
『家康の大樹其の五』〜最終回へつづく
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