2024.03.19
家康の大樹 其の弐~元信から元康へ。大樹寺に椎(志意)の実を植える~
今川義元のお膝元・駿府(今の静岡市)で、人質として育てられた家康。14歳で元服し、今川義元から「元」の諱(いみな)を貰い、松平元信(もとのぶ)と改めます。義元や、今川家の軍師・雪斎は、元信の知見の広さ、優秀さを認めながらも、その能力を今川家のために発揮してくれるかどうかが気になり始めます。
万が一、今川家と対立するような事態となれば、優秀であるが故、今川家の脅威となるのです。そこで、元服を機に、元信を一旦岡崎に里帰りさせる一策を、雪斎は今川義元に提案します。今回はこの続きからです。
目次
元信の岡崎里帰り、大樹寺に宿泊
雪斎と碁を打ちながら決めた元信の岡崎里帰り、義元は早速、元信へ指示します。言われれば喜ぶかと思いきや、さして嬉しくも無さそうな元信。
「はて?」と義元は思いましたが、家臣の関口義広(よしひろ)に6千の兵を任せ、元信の後方からこっそりと岡崎へついていくよう下知します。勿論、元信が信長方へ走る場合には、この関口義広が元信を潰すためです。
岡崎へ里帰りした元信、自分の城なのに岡崎城には入れません。元信は、岡崎城にて今川家の家臣である城代に挨拶をし、そこから半里(約2km)離れた大樹寺という松平家の菩提寺に宿泊するのです。
(写真①②③)
さて、大樹寺に入り、翌日松平八代の墓へ詣でていると、岡崎城代からの急使が元信のところに飛び込んできます。
「御注進!織田信長、大高城(今川軍の城)を急襲!」
「なに!吉法師(信長の幼名)殿が!」若干14歳の元信。自分が墓を詣で帰国した途端に隣国の信長が速攻してくることに脅威を感じます。
「殿。鳥居忠吉殿、大久保忠俊殿が、至急、岡崎城へお越し願いたいとのこと。」
「今川の城代がおるのに勝手に登城できぬではないか。」
「城代は今川の岡崎城兵を従え、大高城へ支援に向かいもうした。」
「よし、分かった。兎に角、岡崎城へ登城する。」大樹寺から岡崎城へは、約1里(約4km)の距離です。
早速、岡崎城に登城した元信を、齢80歳の鳥居忠吉が迎えます。そして、城代らが居ないこの機会に元信に見せたのは、隠れ部屋に堆く積まれた軍資金や兵糧米だったのです。
大久保忠俊が城本殿へ元信を案内すると、その大広間の両側にずらっと並ぶ三河衆の面々。元信を上座に座らせた大久保忠俊と鳥居忠吉が、ひれ伏しながら大音声を発します。「おかえりなさいませ。殿!」居並ぶ三河衆の中には、元信を仰ぎ見て、涙するものもいます。
謀反か?恭順か?
元信は、三河衆からの期待がこれ程大きいとは思っていませんでした。黙って家臣たちを見まわしていると、また大久保忠俊が少し顔を上げて言上し始めました。
「殿、現在、隣国の信長殿が今川側の最前線・大高城を攻撃しているのはご存じですな。苦節10年余、今こそ三河が立ち上がり、信長殿と共に今川軍を駆逐しましょうぞ!」
「…」
「殿!千載一遇とはこのことですぞ!殿が岡崎へお戻りになられたのと時を同じくして信長殿が大高城を攻めるは、まさに殿に今川に対する翻意を促しているのです。三河衆は、殿を駿府に人質として取られ、今川の先鋒として泣く泣く織田方との戦いの前線に立ち、この10年間死屍累々築いてまいりました。その辛酸たるや、ここに居並ぶ譜代の家臣の涙を見れば分かり申そう!」
「…」
「いざ!大高城攻撃を下知くだされ!」元信は、大久保の顔をじっと見つめます。しばらく張りつめた空気が居並ぶ諸将の間に流れ、皆、元信の号令が下るのを、固唾をのんで見守ります。硬い表情のまま立ち上がった元信は、静かに言います。
「良いか。私に時間をくれ。」大久保は叫びます。
「殿!時間がありませぬぞ!大高城が落ちてからでは遅いのです。今すぐご決断を!」困り顔の元信は大久保を見上げます。しかし、強い声ではっきりと言うのです。
「大樹寺に戻る!」
亡き父代わり今川義元への失望
大樹寺に戻ってからも、元信は、ついてきた大久保ら家臣から色々と言われます。
「千載一遇の好機ですぞ!」
「何を愚図愚図と決断せずにおるのですか!」
「殿は、まだお若いから決められないのでしょう。我々三河衆の古参たちにお任せください。」
「…」
元信は目をつぶって、上段の間に着座し、石のように黙しています。(写真④)
2刻(約4時間)程経つと、前線に斥候に行っていた武者が帰ってきました。元信の前に跪くと「只今、信長殿、大高城攻撃を諦め、撤退しました。陣中に放った素ッ破(忍者)によると岡崎城から出た殿が大高城ではなく、大樹寺にお戻りになったと聞いた途端、撤兵を指示したとの由でござる。」と報告します。
すると、居並ぶ三河衆たちは隣同士小声でヒソヒソと話します。
「やはり信長殿は、待っていたに違いない」
「おお、折角の好機を…」
しかし、元信は斥候の話を聞いても、苦渋の顔を下に向けたまま顔を上げようとしません。
「なんと内向的な。」
「やはり駿府にいる間に骨抜きにされてしもうたか、我らが殿は。」
「それが今川義元の狙いだったのだろうな。決断できない弱気な当主を作り、今川家の傀儡(かいらい)とする。」
「所詮傀儡当主の下で働く我々も今川家の傀儡。松平家も終わりなのか。」
「聞こえておるぞ!」
三河衆たちは、ハッとなり、顔を上げます。
いつの間にか立ち上がった元信のこめかみには怒りの青筋が現れています。握られた拳は、わなわなと震え、今にも殴り掛かりそうなその雰囲気に、三河衆は息を飲みます。その時です。
「御注進!」と言って飛び込んできた武者がいます。元信の父に仕えていた伊賀者・服部半蔵正保の息子で服部半蔵正成(まさしげ)。家康の懐刀となる人物です。
半蔵正成は、駿府で人質となっている元信の側人として仕えていました。
「殿、殿の予測の通り、ここから北へ半里の岩津にて、今川ヶ家臣・関口親永が6千の兵を率いて待機しておりました。大高城へ信長と戦をしようという気配も見せず、岩津に一昼夜留まっていた模様。そしてつい先ほど、信長撤兵の知らせが入ると自分たちも陣払いを開始しました。殿のご推測通りであったと思われます。」
大久保忠俊が口を挟みます。
「どういうことじゃ!正成。殿は何を推測なされておったのじゃ?」
「危ういところだったのだ。大久保。」座に戻った元信が平常心に戻り話始めます。
「此度の墓参は、義元公に強く勧められた時から何かあると予感し、来たくはなかった。」
「はっ?」
「勿論、そちや鳥居らをはじめとする三河衆のことは、人質に来て6年間1日たりとて忘れたことは無い。当然、岡崎にも戻りたい。しかし、岡崎に私が戻ったとなれば、幼少の私との関係上、隣国の吉法師殿が黙っている訳がない。そして、それは義元公が予測できない訳がない。」大久保が返します。
「では、此度の信長の大高城攻撃は、やはり殿を岡崎から引き出し、信長殿の軍につけることの対応?」
「無論、吉法師殿から私に何かの連絡があったわけではない。でも予想どおりだった。そして、義元公も私の予想通りの動きをしたのだ。」
「と申しますと?」
「もし、私が岡崎を出陣し、吉法師に靡くような疑いがある時は、今川軍が私らを潰してしまおうと。」
「なんと!」
「私も信じたくはなかった。父とも思うておる義元公が、私を潰そうなど…。しかし悪い予想は当たった。正成に周囲に今川の大軍が居ないかどうかを確かめさせたところ、まさに関口刑部殿が来ていたとは。皆が私をなじる最中も、この疑い話を何度もしたいと思うたが、万が一これが邪推であり、今川義元公は、やはり真っすぐなお人であったなら、私は死んで義元公にお詫びせねばならぬと考えたので、安易に皆に打ち明けなかったまでだ。」
元信は、大きなため息をつきました。それは今まで唯一、亡き父の代わりとも思い、信頼していた今川義元も、所詮は戦国大名の1人であり、弱肉強食の理から抜け出すことの出来ぬことへの失望です。
志意(椎)の実を植える
元信は立ち上がると、縁側から寺の庭に出ました。暗くなりかけた夕暮れの庭に何やらどんぐりのような木の実が落ちています。元信は無言のまま、その実を拾い上げ、
「椎(しい)の実か? 今川家も三河衆もまさに、四囲(しい)は我が志意(しい)のとおりには行かぬ。」と、腕を大きく振って、その実を遠くに投げようとしました。
「ちょっと待て。ここは『大樹の寺』。もし、これでこの実が大きな椎に育つのであれば、我が志意も大きく育つはず。」家康は、その実を丁寧に手で穴を掘り、埋めました。
今回の事件後、元信は、名前の「信」の一字を三河衆の信望厚い祖父の「康」の諱に付け変え、「元康(もとやす)」と改名したいと義元に申し出ます。
これは、義元に「元信をこれで信じて貰えましたね?ならば信の文字を名前から外しても義元公は私を信じますね?」と暗に提示したものです。義元もこれを認めます。そして、桶狭間の戦いで義元が信長に討たれるまで、元康は義元の重要な家臣として活躍するのです。
桶狭間の戦いの後、一国の領主として、この岡崎に戻って来た元康は、この大樹寺で、自分が埋めたこの椎が、大木になりつつあることを知るのでした。(写真①)
今川義元の上洛作戦開始
岡崎の里帰りでの一件で、見事に義元の「信用」を勝ち取った元康です。今川義元は、この三河の雄・元康を引き連れ、上洛作戦を展開するのです。
「東海一の弓取り」と言われた今川義元。甲相駿三国同盟という武田信玄・北条氏康との巧な外交政策と、隣国・織田領にある沓掛城・鳴海城・大高城の奪取による橋頭堡の確立という対織田信長侵攻戦略を、この上洛作戦前に完了しており、永禄3年(1560年)、アヤメ咲く5月、義元は2万5千の軍を上洛のため動かします。(写真⑤)
この時、元康は信長攻略の先陣を義元に希望します。このことが直ぐに諜者によって信長に知れるのですが、これを聞いた信長は憤りを強く感じます。
信長が吉法師と呼ばれていた少年時代に、弟のようにかわいがった竹千代(元康の幼名)。しかも元康が、単に三河の人質だから先鋒にさせられているというのであれば、まだ我慢のしようもあるのですが、なんと自分から義元に先陣を申し出た、十中八九負けるであろうと言われている信長の領地を弟分の竹千代に蹂躙され、足下にひれ伏す…想像するだけで、歯ぎしりしたくなる信長です。
元康、信長、義元、3人の思惑が交差する今川軍上洛戦の火蓋が切って落とされました。
『家康の大樹 其の参』へつづく
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