2024.05.16
ヒロシマの原爆を生き抜いた或る木のものがたり。
※この記事は大学生インターン・職業体験の一貫として、歴史を学ぶ学生に、「特別な木」にまつわるテーマを考え、取材・制作して頂きました。
a Tree Story
広島市の平和記念公園にある「被爆アオギリ」の木。
現在、平和記念公園にある「被爆」アオギリは2本ですが、自然落下した被爆アオギリの種が育った苗木(被爆アオギリ二世)を親木のそばに移植し、現在は、「旧逓信局から移植された被爆アオギリ」2本、この「被爆アオギリ二世」1本の合計3本の木が公園内に現存します。
中央の1本は、2004年9月7日、台風18号による暴風で根元から倒れましたが、すぐ近くに大きな石があり、奇跡的にその石を枕にするように倒れたので主根は切れず、翌日の市による迅速な復旧作業で幸いにも無事に生命を繋げたそうです。
ここに登場する「アオギリ」の木は、被爆樹木の1つで、広島市の平和記念公園にある「被爆アオギリ」の木です。
被爆樹木とは、爆心地から約2km以内にあり、原爆投下以前から生えていた樹木。
このアオギリは、広島原爆の際、爆心地から約1.3kmの旧広島逓信局の中庭で被爆し、73年に現在の場所へ移植されたもの。原爆によって幹の部分が焼けて抉られましたが、その傷痕を包むように成長しています。
広島市は、この種から育てた苗木を「被爆アオギリ二世」と名づけ、修学旅行で平和記念公園を訪れた学校などに配布しています。
語り手/ 森下敦子さん (広島平和教育研究所研究員)
森光七彩さん (シンガーソングライター)
聞き手/飯塚花梨 (京都橘大学・文学部歴史学科)
私の地元、広島の平和記念公園に「被爆アオギリ」と呼ばれる木があります。
今回は私の小学生の頃の記憶を思い起こしてくれた絵本、『アオギリのねがい』の共著者である森下敦子さん、広島の子どもなら必ず知っている楽曲『アオギリのうた』のソングライター森光七彩さんに、被爆アオギリを取り上げた経緯と、そこに込められた気持ちを伺いました。
実は、森下さんは森光さんの担任のご友人だったそうで、森光さんは授業で「アオギリのねがい」を習い、森下さんも演奏会で森光さんの歌を聴いていたとのこと。(飯塚)※文中敬称略
被爆アオギリの話を絵本で伝えたい
森下) 平和記念公園の被爆アオギリのことを知ったのは、私が教員になり、同僚に教えてもらったのがきっかけです。そこから少しずつ勉強をしていきました。ある日学校に被爆アオギリ二世の苗木が配布されることになりましたが、子どもたちに口頭で説明をするだけではその背景の理解が難しいと思いました。それで初めは紙芝居を制作し被爆アオギリのことを伝えました。
このことを元同僚の先生(絵本の共著者)に話し、一緒に取り組むことになりました。ふたりで相談するなかで、紙芝居から絵本という形にしたいと思うようになりました。絵本なら子どもたちが、ひとりで手にとって読むことができるからです。
飯塚) 絵本製作で苦労したところは何でしょうか。
森下) ストーリーはシンプルですが、被害にあったのは人間だけではなく、動植物が被害にあったことも伝えたい。難しいですが「放射能」という言葉も外せません。でも、被爆者は立ち上がったということも含め、希望を持った終わらせ方にしたいと思いました。
絵は、知り合いの美術教員に協力を求めました。夏休みに作業を始め、私たちもお手伝いしましたね。柔らかく表現するために画材は水彩色鉛筆などを使用して、本の大きさや表紙にもこだわりました。あとは発行です。「広島平和教育研究所」に、ぜひ出版してほしいと頼んだんです。
絵本の発行って結構大変なんですね。二つ返事ですぐ了承が得られたわけではありません。…教室で読み聞かせるだけでなく、実際のアオギリを取り入れながら試行錯誤して取り組みました。作ったから出版ではなく教材として有益か価値があるかどうか実践と成果発表の期間がありましたね。
飯塚) そのような取り組みが行われていたんですね。仕事との両立も関わってきますね。
森下) 時間の捻出には苦労しましたね。平和学習は特に教科書があるわけではないので、自ら調べる意欲や、心身共にまた職場環境的にもゆとりがないと思うような実践はできませんからね。同学年の先生や関心を持っている他校の先生方と協力したり情報交換したりできたのはよかったですね。
飯塚) 実物のアオギリが今も存在することが、ストーリーを伝える要因になりますよね。
森下) 証言者になりますね。人間は命が果ててしまいますが、(モノは)いつまでも残りますからね。
飯塚) その役割はとても大切だと思います。
森下) 知ることは必要だなと思います。昨年、群馬県にある前橋空襲追悼碑を見に行った際、中学校の生徒と交流する機会がありましたが、そちらの先生が「私の学校にもアオギリの木ありますよ」と仰っていて、被爆アオギリのストーリーが色々な県に広がっているのを嬉しく思いました。
飯塚) 広島市内であれば交流がありますが、他県との交流は主体性がなければ見えないものもありますよね。先生方が活発に活動を行わないと難しいことですね。
森下) そうですね、修学旅行で平和記念公園に来るだけでもすごいことなのですが、私の場合であれば、前橋空襲が8月5日の夜から、6日の未明にあったことを知り、原爆のことだけではなく、日本全国に多くの空襲被害があったことも、もっともっと知らなければと改めて思いました。
飯塚) 同じ時間でも様々なことが起きていますよね。同時系列で起こった事と被爆アオギリの話に共感が生まれやすいと思います。
森下) そうですね、繋がっているなと。先生方が心動かされたエピソードがあれば、子どもたちへの伝え方を工夫して頂いて、被爆アオギリとその物語の普及に取り組んでくださればと思います 。
飯塚) 広島市に配布された苗木をモチーフにした歌もありますよね。
森下) ありますね!「アオギリのうた」ですね。学校で歌われていたんじゃないですか。
飯塚) よく歌っていました。広島の友人に「アオギリのうた」について聞いたら、全員から全部分かるよ、歌えるよと返ってきました。
森下) 良い歌ですよね。実は、平和活動の一環でニューヨークへ行ったとき、アオギリの木の歌を歌いたいと責任者に掛け合ったところ、「ここはアメリカだから英語で」と言われ、大学生に一晩でその歌を英訳してもらいました。
飯塚) 英語版があったことを初めて知りました。
森下) 流石アメリカだなと思ったのは、出るものは歓迎されるという感じで、「作ったから歌わせて」とステージに上がっちゃいましたね。終わった後も「君たちよくやったね」という感じでした。
アオギリに関わった人〜平和記念公園や校庭の樹木の世話をしている人、植物公園で苗木を育てている人など〜が、自分なりに身の回りでできることを行っているのはうれしいですね。
飯塚) 最後の質問になりますが、アオギリの絵本を読む方に伝えたいことを教えてください。
森下) 絵本のテーマにもあるように「命」を大切にすること。子どもたちが被爆の実相を次世代へ受け継ぎ、アオギリの苗木たちが旅立ったように、絶望ではなく、人間の良心を信頼して、平和な世の中を作る主体になってくれたらと思います。
「アオギリのうた」制作秘話
アオギリのうた
作詞・作曲/森光七彩
電車にゆられ 平和公園
やっと会えたね アオギリさん
小学校の校庭の木のお母さん
たくさん たくさん たね生んで
家ぞくがふえたんだね
よかったね
遠いむかしの きずあとを
直してくれる アオギリの風
遠いあの日の かなしいできごと
資料館で見た 平和の絵
いろんな国の 人々や
私がみんなが 考えてゆく広島を
勇気をあつめ ちかいます
あらそいのない国 平和の灯(ひ)
遠いむかしの できごとを
わすれずに思う アオギリのうた
これから生まれてゆく
広島を大切に
広島のねがいはただひとつ
せかい中のみんなの明るい笑顔
飯塚) この「アオギリのうた」の制作背景について教えてください。
森光) 広島市内の小学校に通っていたので、平和学習が盛んにおこなわれていて、学校にも被爆アオギリの二世の木がありました。ある時、授業の一環でみんなで平和記念公園にあるアオギリの木に会いにいくことになりました。歌詞にも出てきますが、まさに電車で行き、被爆アオギリの木を見て、平和資料館に行く、という流れでした。
その日、私が書いていた感想文を母が発見して、「これはいい歌詞になりそうだから、曲を付けたらいいんじゃない?」と言ってくれたので、曲を付けて完成したものです。初めは担任の先生が変わるタイミングだったので、プレゼントしようと作っていました。その時に広島の歌の公募があることを知り、締め切り日ギリギリに「送ってみよう」と送ったものが915作品の中から1番になりました。
飯塚) 歌を作って良かったと思った瞬間はありますか。
森光) 歌を作ってから、色々な場所で歌って、いろんな出会いがありました。アオギリの木に救われた被爆者の沼田鈴子さんともお会いする機会があって「歌を作ってくれてありがとう」と感謝の言葉をいただきました。何より私の祖母が1番喜んでくれて、毎日CDをかけてくれていました。
そんな出来事から、少しずつ、このアオギリの木とこの歌が無ければ、私の人生はきっと違っていただろうと思う所があります。
飯塚) 身内が一番喜んでくれるのは嬉しいですよね。楽曲を作る過程で思い出はありますか。
森光) 実は、あまり記憶がないんです。家族全体が音楽家庭というのもあって、幼少期からオリジナルの曲を作るというのが遊びの中にありました。「アオギリのうた」も普段の遊びの延長にあるような感じでした。曲をつける際には父も協力してくれましたが、父曰く、イントロをつけるとき、完成した歌を聴いて、すぐにこれだというのが浮かんだそうです。30分ぐらいで作ったと言っていたので、仕上がるまでの速度はとても速かったと思います。
飯塚) 「アオギリのうた」で気に入っている歌詞はありますか。
森光) 一番最後の「せかい中のみんなの明るい笑顔」っていう所が一番好きで、いつもそこを大切に歌おうというのは、作った頃から心がけていました。
飯塚) 印象に残っているステージはありますか。
森光) 小学生の頃、長崎で歌った時ですね。同じ被爆地というのもあって、会場の雰囲気がいつもとは違うと感じていました。他県で歌うと、私の伝えたいことと観客の反応に少しズレがあると感じることもあったので、歌詞の思いを汲み取り、感じて拍手してくれたという印象が強くありました。生で伝える事の重要性があるんだと思いましたね。
飯塚) 歌う中で大変だった出来事はありましたか。
森光) 難しい所ですが、初めはあまり平和を願って作った訳ではないのもあって、周囲から平和的要素を求められることが辛い時期はありました。平和になってほしいとは思っていましたが、大人たちの思いと自分の思いが違うと思うことが小学生の高学年の頃はありました。
だけど、中学生になってからはその思いが変化するようになりました。今では、求められて当然だとも思いますし、私自身も学ぶ機会に出会えています。この曲が無ければ、きっと平和についてここまで思ったり、考えたりはしていなかっただろうと思います。
(この曲は)サビが分かりづらいので、Aメロが1番分かりやすい。今思えば、冒頭も良いなと思ってきました(笑い)。はじまりがあんな感じの歌って中々ないなと思いうので。
飯塚) 情景が思い浮かべやすいのは覚えやすいことにも繋がると思います。この歌を聴く人に、受けとってほしいことは何でしょうか。
森光) 平和学習となると、被爆者の方の話を聞いたり原爆の怖い映画を観たり、そういった悲しい、辛いという気持ちが先に来てしまって、あまり考えたくなくなるような気がしているんです。そういった感情ではないものをこの曲を通して感じて欲しいです。明るい未来に向けて、自分がどうしていくか、この曲を通して自分がどのように原爆を受け止めるかを大切にしてほしいです。
飯塚) 平和を継続的に意識するために必要なことは何でしょうか。
森光) そういった意味では、「歌」そのものが繋いでいくツールとして、とても良い機能を持っているのだと思います。この楽曲が20年以上も歌い継がれているのも、私がここまで活動してきたのも、この歌に拠るところが大きいです。幼い子でも歌えるというのは、全世代の人たちに理解しやすいということ。
だからこそ、この歌に幼い頃に出会うという経験は貴重なものになるだろう、と思ったりします。「アオギリのうた」を歌って平和を感じることも平和に繋がる一歩だと思います。私がいつもこの歌を教える時に言っているのが、心を込めて歌ってほしいということです。
例えば、この歌を歌ったと家族に話す事だけでも、平和への第一歩になっているかもしれない。私も音楽を続けてきたからこそ、こうやって少しでも平和に貢献できているような気がしているので、ひとつのことを頑張るだけでも平和につながるんだよと伝えていきたいと思っています。
「好きなことを続けて欲しい」と伝えるのも、「形に残す、大切なことを続ける。だからこそ考えるタイミングも出てくる」と思うから。歌う機会があるだけでも、誰かと共有できる可能性が生まれ、それが継続に繋がるのかもしれません。その瞬間で終わらせないような努力も私自身に必要かなと思います。
被爆樹木を小学校で植えるという行動も、平和記念公園に行かなければ見られないというものではなく、身近にありながら成長していくからこそ感じられるものだと思います。
飯塚) 歌という手段も、歌そのものにも前向きなエネルギーが存在していると感じました。私が小学生の頃、8月になると必ず歌っていた「アオギリのうた」が奏でる軽やかなメロディラインは、成長した私の中にも確かに残っていました。
お二人の話を聞き、形は違っても「被爆アオギリ」と「平和」に対する想いの根本は共通していました。被爆地広島だからこそ「平和」を継続して発信する必要があるのだと学びました。改めて、貴重な機会をいただきありがとうございました。
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