2023.08.25
日本人と桜
日本人の多くが愛して止まない樹木のひとつといえば、春の訪れを告げる「桜」でしょうか。ようやく本格的に楽しめるようになったお花見しかり、もちろん主に愛でられるのはその愛らしくも華やかで、儚い桜の「花」ですが、日本人が何故それほどまでに桜に惹かれるのか、日本人にとって「桜」とは何なのか。あらためて考察してみました。
目次
梅から桜へ ~日本人はいつから桜を好きになったのか お花見の始まり~
梅から桜へ 愛でる花が代わる
平安時代まで、日本人にとって「特別な花」といえば、弥生時代(※)中国から渡来したと言われる『梅』でした。8世紀に中国との交易の中で、薬用の「烏梅(うばい)」(梅干の一種)が輸入された際、梅の種や苗も輸入され、その後日本で栽培され始めたようです。
いずれにしても舶来ということで、当時はとても高価かつ有用な植物として必然的に都の中に植えて管理していました。山桜が野生であるのに対して、梅は人間の手によって栽培されたのです。 また、実用性だけでなく、春になると他の植物よりも早く花を咲かせる「百花の魁(さきがけ)」である梅は、鶯と組み合わせて春の訪れを告げる花として尊ばれていました。
『万葉集』では「梅」が「桜」の3倍(119首)の数も歌に詠まれていたように、奈良時代の貴族は梅を好み、鑑賞しており、当時の花見と言えば梅の花が主流だったのです。しかしこれは、決して桜が好まれていなかったわけではなく、当時の日本人にとって桜が神聖な木として扱われていたためだとも考えられます。
例えば、「桜=サクラ」の語源は、天つ神のニニギのミコトと木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の婚姻神話で、春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)を合わせて「サクラ」という説。さらに、富士山頂から花の種を蒔き花を咲かせたとされる、「木花之開耶姫(コノハナノサクヤビメ)」の「さくや」をとったという説など諸説あります。
その後、894年の遣唐使廃止と、いわゆる「国風文化」の発展とともに、日本に自生していた『桜』を特に好むようになっていったのだと思われます。
平安時代に編纂された『古今和歌集』で詠まれた花は、梅が約18首、桜が約70首。『万葉集』とはその数を逆転しました。
主役交代のひとつのきっかけは、平安「三筆」の一人・嵯峨天皇(786~842年)が牛車で行幸の際、京都・東山の「地主神社」の満開の桜に心を奪われ、あまりの美しさに二度、三度と車を引き返しては見事に咲く花を眺めた(このことから「御車返しの桜」とも呼ばれる)とあります。そして御所の庭の「左近の梅」が桜に植え替えられ、雛飾りでお馴染みの、現在の「左近の桜」「右近の橘」の姿になったのだとか。
桜と日本人~日本人はなぜ桜に惹かれるのか~
お花見の始まりは嵯峨天皇から
平安時代初期の史書『日本後紀(にほんこうき)』には、嵯峨天皇が弘仁3年2月12日(812年3月28日)に京都の寺院・神泉苑(しんせんえん)にて「花宴の節(かえんのせち)」を催したとあり、これが記録に残る最初の「桜の花見」と考えられています。
その後、「桜の花見」は貴族の間で流行し、天長8(831)年からは宮中で天皇主催の春の恒例行事として取り入れられたそうです。その様子は平安時代中期の『源氏物語』第八帖、「花宴(はなのえん)」にも描かれています。
そして、安土桃山時代になると、豊臣秀吉による大がかりな花見が世をにぎわせました。
文禄3(1594)年の「吉野の花見」は、大坂から千本もの桜を移植した吉野の山に、徳川家康や前田利家、伊達政宗など有力武将ら五千人を招き、5日間も行ったというかつてない盛大なスケールだったことが記録されています。 花見の習慣が庶民にまで広まったのは、江戸時代のこと。8代将軍徳川吉宗は、浅草や飛鳥山に桜を植えさせ、庶民の行楽を奨励しました。
さらに吉宗は、5代将軍綱吉の時代に「生類憐みの令」で禁止された「鷹狩」を復活させました。その際、農民たちの収益が上がるようにと、鷹狩の場所に桜を植えさせ、花見客が訪れるよう取り計らったのだとか。
花見にお弁当やお酒がつきものとなったのもこの頃から。花見は千年以上の歴史を超えて現代に生きる日本文化といえます。
日本人の精神性と深く結びついた「桜」
世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
これは平安時代初期に書かれた『伊勢物語』の主人公・在原業平が、桜によって心が乱されることを詠嘆した歌。
ひさかたの ひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ
これは『小倉百人一首』で紀友則が桜の花の盛りの短さを惜しんで詠んだ歌。
花の色はうつりにけりな いたづらに わが身世にふるながめせしまに
同じく『小倉百人一首』で、美貌で名高い小野小町が衰えゆく容色を桜に重ねて詠んだもの。
ねがはくは 花のしたにて春死なん そのきさらぎのもちづきのころ
これは桜の名所・吉野に通いつめ、桜へ想いを託す歌を数多く残した西行が、死ぬその時まで桜を愛でていたいと切望した歌。
これほどまでに日本人が桜を好きな理由のひとつに、桜は春の訪れを象徴する花であること。
四季がはっきりしている日本では、寒さが厳しい我慢の「冬」が終わり、様々な物事が「はじまり」を迎える「春」は待ち遠しく、うきうきと心躍る季節です。
もうひとつの理由は、日本人特有の滅びの美学というか、「美しくも儚い花」であること。
何ヶ月も前からずっと、桜の満開を心待ちにしていたにも関わらず、その爛漫と美しい桜は2週間程度で儚く散ってしまいます。
特に一斉に咲いて一斉に散る「ソメイヨシノ」が主流になると、満開から花吹雪、花絨毯、花筏へと短い間にその姿は移り変わり、その無常さ、名残惜しさゆえに、より深く心惹かれるのでしょう。
桜と日本文化 ~アート・食、日本文化の中の桜~
日本人は芸術、食と「桜」を貪欲に楽しむ
そんなに愛する桜ですから、日本人は、和歌はもちろん、浮世絵、日本画、洋画、工芸品、唱歌、流行歌から、和菓子やケーキなど食にまで「桜」を素材にした数々のものを生み出して楽しんでいます。
大正生まれの日本画家、菊池芳文は、桜を消えゆくものの美しさと重ね合わせ、桜の儚い美しさに吉野という土地に刻まれた歴史をにじませた6曲1双の傑作屏風絵、「小雨ふる吉野」(東京国立近代美術館蔵)を描きました。
海外の作家ですが、日本でも個展が開かれた現代アートの巨匠、イギリスのダミアン・ハーストは「桜とは美と生と死にまつわるものである」と語り、「生と死」、「過剰と脆弱性」という彼のテーマを桜に託した連作「桜=Cherry Blossoms」を発表しています。
「桜を食べる」ことで言えば、関東風桜餅「長命寺」の元祖は、長命寺の門番・山本新六が、享保2(1717)年、門前に「山本屋」を創業して売り出したのが始まりで、もとは墓参の人をもてなした手製の菓子であったそうです。
おはぎでお馴染みの道明寺粉で出来た関西風の桜餅「道明寺」は、関東風桜餅の人気にあやかり、大坂・北堀江の土佐屋が天保(1830〜1844)頃に作ったのではないかと言われます。
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