2023.08.25
神社仏閣にみる頼朝の軌跡 頼朝ゆかりの地を歩く 前編
頼朝の生涯を知る上で、ぜひ行っておきたい神社・仏閣等を厳選し、頼朝の生涯に沿ってご紹介させて頂きたいと思います。各所について見て回られると、きっと味わい深い史跡巡りができると思いますよ。
目次
千葉山 智満寺
平治の乱で平清盛らに敗れた頼朝の父、源義朝。平治二年(一一六〇)冬のことです。
義朝は京から関東へ逃走し、勢力の立て直しを図ろうとします。ところが名古屋辺りで、その地方の豪族のだまし討ちに会い、温泉に入浴中に襲われ落命するのです。
当時十三歳の頼朝も父、義朝と同行していたはずなのですが、関ヶ原の辺りで吹雪に遭い、義朝一行とはぐれてしまいます。
馬で雪中を彷徨っている頼朝は、平宗清に捕らえられ、清盛の前に引き出されます。当初、死罪を言い渡されるのですが、清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)が清盛に頼朝の助命を懇願。清盛も譲歩せざるを得なくなり、頼朝の死罪を、伊豆への流罪へと減刑に処すのは有名ですね。
さて、頼朝の伊豆配流の経緯を詳細に記載した資料は残っていません。
ただ伝承の一つに伊豆流刑地に流される途中、東海道の島田(静岡県島田市)から、少し山側へ入ったところにある智満寺に立ち寄ったというものがあります。
ここで武運長久を祈願した後、杖にしていた杉の枝を地に挿し、亡父、義朝公の墓所の方向、西を仰いで、必ず再起すると心に誓ったという伝承です。
立ち寄った日は生憎の雨。寺の裏山を少し登ったところに杖を立てた頼朝。
彼は雨に打たれながら「かけてみよう」と小声でつぶやきます。杖にしてきたこの杉の枝を突き立てます。
あまり加工していないとはいえ、杉の木の杖を地面に刺して、それが接木のように成長する訳がありません。よく弘法大師が全国を行脚している中で、杖を立てると木になったという伝説はあちこちにありますが、本当のところは怪しいと、当時の頼朝も知っていたかもしれません。
ただ、当時流刑人として伊豆に流されていく頼朝にとって、この杖が大木になる可能性と自分が流刑人から700年間の武士の府を作り上げることを、ほぼ同じ確率と見ていたとしても何の不思議もありません。
杖が杉の大木に成長したならば、それは自然なことではなく、観世音のご加護の印であり、それはまた、自分が観世音のご加護で、武士の棟梁に返り咲くという大願が成就する証だろうと……。
結果、杖が根付いたものが、この「頼朝杉」になったといわれています。
二十年後にその奇跡を知った頼朝も、「観世音のご加護の印を見た!」と確信し、自分の兜の中に手彫りの観世音の小像を入れて、挙兵するのです。
智満寺の頼朝杉の由来には、頼朝が流刑地、伊豆に滞在中に智満寺へ参篭して植えたという説もあります。正直、どの話も一級史料等への記述はなく、伝承の域を出ていません。
そもそも、本当に頼朝が植えたのかということに疑問をもつ人もいるくらいです。ただ、千葉山という名前を貰っているこの智満寺は、下総(千葉県)の千葉氏と関係があるのは明らかです。
千葉氏は頼朝が鎌倉に武士の府を開くにあたり、大変貢献した一族です。
なので、挙兵の頃の参謀役である怪僧、文覚が千葉氏引き込みに大きくかかわったことから、この一族の名を智満寺の山号にしたとき、彼が深く関係しているのではないか。また、旗揚げ時の苦労を忘れないように「これが頼朝殿、これが千葉常胤殿……」と裏山の杉に文覚が命名していったのではないか、と想像してしまうのです。
まあ、諸説ありますし、どの説をとっても八百年以上頼朝杉が生きていたことになりますね。今回倒れた頼朝杉は二代目と考える説もあります。
音無神社
頼朝が伊豆に流されたのは、皆さん、現在の「伊豆の国市」の蛭ヶ小島と思われている方が多いようですが、流された初期の頃は、伊東祐親(いとうすけちか)が在官庁人を務める、伊東の地に流されたのではないかという説が有力で、「北の御所」というところに、一時期頼朝が居たというものです(『曽我物語』)。
この「北の御所」、正確にはわかっていないようなのですが、現在の伊東駅のあたりから北の山側にかけてという説が有力のようです。
頼朝は、この地に配流されてから大人しく誦経・写経、時々乗馬という真面目な流人生活、と思いきや、やはり、女性好きですね。「英雄色を好む」だから仕方ないと言ってはいけませんが(笑)。とにかく、伊東祐親の三女、八重姫と恋仲になります。
その逢瀬を楽しんだのが、伊東祐親の館(現・物見塚公園)近くにある音無神社。また、頼朝が人目を忍んで日が暮れて暗くなるまで、音無神社の近くの社で待機していたところが、その名のとおり、日暮神社となっています。
逢瀬を重ねるうちに、頼朝と八重姫の間には千鶴丸という男の子が生まれます。頼朝も初子であり、また流刑人の身であるため、とても喜んだようです。
ところが、この逢瀬と千鶴丸の出産については、八重姫の父、伊東祐親は何も聞かされていません。そしてこのことは祐親が大番役(朝廷や貴族の警護役)として京に行っていた三年間のうちに起きたことだったのです。伊東に祐親が帰ってきた後も、しばらくは千鶴丸のことは祐親には知らされませんでした。
ある日の夕方、館の庭の築山で遊んでいた千鶴丸の姿を見て、「あれは誰の子じゃ?」
と妻に問いかけると、祐親に言おうか言うまいか迷っていた妻は、ままよとばかりに、「頼朝殿と八重の子です。あなたの孫ですよ」と告げたのです。
しばらく意味がよく呑み込めず、茫然とその子が遊んでいるのを見ていた祐親。はっとなって、いきなり、「娘の数が多すぎて、行き場がなければ、乞食にでもくれてやるが、この時分に大罪人である源氏の流刑人を婿にするとは、なんたる不行き届き。もし平家に見咎められたらなんとするのか!仇かたきの子は殺すのが古今云われていることだ!」(『曽我物語』)。
と激しい勢いで妻にあたった後、すぐに近くの郎党に向かって「直ぐに兵を集めよ!」と下知します。
そして築山で遊んでいた千鶴丸を無理に抱え込みます。嫌がり泣き叫ぶ孫を、無理やり抱えたまま馬に乗り、音無神社の横を流れる松川のほとりに出るのです。そこに集まった兵に、千鶴丸を柴漬け(柴で体を覆い、簀巻き状態にすること)にさせます。
そしてモノのようにそれを馬に括り付け、松川上流に走り、深い淵のところで、柴漬けの千鶴丸を投げ込んでしまうのです。「おのれ頼朝! 流刑人の分際で八重をたぶらかすとは! 目にもの見せてくれん!」
といきり立つ祐親。直ぐに、兵とともに、頼朝のいる「北の御所」に急行します。
一刻(2時間)後、松明を持った三十の兵で「北の御所」を取り囲んだ祐親。
「頼朝! 出てこい! よくも八重をたぶらかしたな」
と叫んでも、シンとした北の御所は、頼朝はおろか、人っ子一人いる気配もありません。
伊豆山神社
実はこのとき、祐親と妻のやり取りを見ていた祐親の次男、祐清が、頼朝の身の危険を察知して「北の御所」の頼朝のもとに走ります。
「なに、伊東入道殿(祐親)が激怒とな」 と頼朝。祐清は提案します。
「はい、残念ながら千鶴丸はもう駄目でしょう。頼朝殿もここに居ては危険です。恐れながら、私から、隣の在庁官人である北条時政殿に早馬を飛ばし、頼朝殿の受け入れを依頼しております。時政殿の受け入れが整うまで、どうか伊豆山神社へお隠れください」
「ぬぅ、千鶴丸はダメか……、万事よろしく頼む」
ということで、頼朝は祐清らと一緒に北へ馬を走らせ、熱海の海際に迫った山の中にある伊豆山神社に逃げ込むのです。
伊豆山神社に逃げ込んだ頼朝。当時の伊豆山神社は伊豆山権現と言われ、広大な領地と多くの僧兵をかかえ、めったに他人が足を踏み入れるのを赦さない構えを見せているのです。
ここに頼朝が匿われたのは、実は祐清や、隣の土地の土肥実平(どひさねひら)らと伊豆山権現は関係が深く、また頼朝も、これら伊豆から箱根、相模の国にかけての豪族らと関係を築いていたこともあるのです。とにかく、祐親がどんなに地団駄踏んでも、伊豆山権現の神域まで追手を侵入させることはできないのでした。
そしてこの後、同じ伊豆の在庁官人である北条時政のもと、北伊豆の蛭ヶ小島での流刑人生活へと移行するのです。この監視役が伊東祐親か北条時政へ移行するには、先の伊東祐清や北条時政のところの義時が腐心したようです。
祐清は八重姫の心優しいお兄さん。義時は八重姫に対して憧憬を抱く(初恋という噂も)思春期の男の子です。
伊豆山神社は、不思議なことに八重姫と別れた後、頼朝が政子とも逢瀬を重ねる場所としても有名です。と言っても、ここは熱海であり、駿河湾側の韮にら山やまを拠点とする政子ら北条氏とは滝知山(たきちやま)や、亀石峠のような伊豆の山脈群を超えて伊豆山神社まで来たことになります。
通説では、政子は韮山に目もく代だいとして着任した山木判官平兼隆(やまきはんがんたいらのかねたか)という、後に頼朝の旗揚げのターゲットとされる豪族の嫁になるはずでした。ところが彼女は嫁ぐ日に頼朝の待つ、この伊豆山神社へ闇夜の山中を彷徨いながら逃亡。いわば頼朝の略奪婚として有名です
たしかこの略奪婚が気に入ってキョンキョン(小泉今日子)さんは鳥居を奉納されたのですよね。
その後、頼朝と政子が結婚して、平家打倒の旗揚げ前後から石橋山合戦の後まで、政子は初子の大姫と一緒に、この伊豆山神社に避難しているのです。
石橋山合戦で頼朝が敗れたとの報を、ここで聞いた政子はかなり不安だったと思います。
頼朝挙兵に縁の深い土地 守山八幡宮・山木判官平兼隆館跡・三嶋大社
守山八幡宮
頼朝は挙兵直前に籠って、北条時政や関東諸将と連絡を取り合ったりしたのは、蛭ヶ小島ではありません。蛭ヶ小島は流刑人用に、狩野川域の平たい目立つ土地にありますし、また挙兵の対象とした山木判官平兼隆の館からも近すぎます。
では、どこかというと、北条時政の屋敷があったとされる守山麓の北側にある守山八幡宮の辺りです。
先に述べた通り、政子や長女の大姫等を伊豆山神社へ避難させた後、頼朝自身も共謀する北条時政と直ぐに協議できるこの場所で挙兵の計画及び関連諸将の周旋をしたのでしょう。
この守山は狩野川のすぐ横にある百メートル程度の小山で、展望台からは見晴らしが良く、眼下に蛭ヶ小島を含む狩野川流域、北には富士山が見え、北伊豆の素晴らしい景観が広がります。
頼朝も守山の頂上には、挙兵計画遂行のために何度も足を運んだようです。
現在、頂上には展望台がありますが、ここまでの道は、この八幡宮の裏から、獣道ですが続いています。展望台への正規のルートは、この八幡宮以外にも守山を挟んで反対側にある北条氏邸跡(円成寺跡)から登るルートで、こちらはしっかりと階段も整備されています。
ただ、頼朝挙兵時に頼朝がよく使ったのは、こちらの獣道ではないかと筆者は想像しています。
山木判官平兼隆館跡
頼朝は平家打倒の狼煙を、平家寄りの目代、山木判官平兼隆の館を襲うことで実現する計画を立てます。武士の時代700年の記念すべき挙兵事業のはずなのですが、驚くべきことに、この館跡は現在、解説看板一つ残っておらず、民家の敷地になっています。頼朝自身は、守山八幡宮をこの挙兵の本営とし、自分の手下約三十騎が、この山木の館を夜襲し、判官平兼隆を討ち取ったら、館に火を掛け、煙を上げる、それこそ挙兵の狼煙を明け方の空に確認するという計画を実行します。守山に登り、館から上がる煙が見えるのをまだかまだかと待っていた頼朝。
しかし、なかなか煙は見えません。兼隆を打ち漏らす、三十騎が敗退するなどの失敗があれば、頼朝自身、時政に殺されるリスクを含め、「はい、ここでこの世とさようなら」の危険があったのですから。守山の展望台からは、そのとき、頼朝が気を揉みながら見ていた景色が、左上の画像のように見えますので、ぜひご探訪ください。予定時刻よりかなり遅くに、やっと煙が立ち上り、「よかった!」と頼朝は、持っていた小さな手彫りの観世音を握りしめ、その加護と挙兵した同士たちの働きに感謝するのでした。
三嶋大社
頼朝が挙兵にあたり、必勝を祈願したのは勿論のこと、この三嶋大社の祭礼の日を、山木判官平兼隆を急襲する日に選びました。というのは、三嶋大社という大きな神社の祭礼は、この伊豆の殆どの人が参加するため、山木館の家人たちも大方出払ってしまい、急襲しやすくなるからです。
挙兵は夜中から開始されましたが、当日、頼朝は、従者の安達藤九郎盛長を奉幣使として戦勝を祈願させます。その日の挙兵が成功し、その後、源氏再興が成就すること、そのために大社の祭礼という行事を、上手く活用させていただくことを祈願させたのでしょう。
三嶋大社自体は、かなり歴史が深く奈良や平安時代の古書にも記録が残っているようですが、この祈念が効いたということで、宝物の献上や社領の拡大等、武士の崇敬篤く、発展していきました。またこれには後ほど、箱根神社のところでも述べますが、吾妻鏡によると文治4年(1188)に頼朝が始めた「二所詣」。これは挙兵成功の感謝の気持ちと鎌倉幕府創生の気持ちを忘れないためのもので、その関係が深い神社として、「伊豆山神社(権現)」、「箱根神社(権現)」、「三嶋大社」の三カ所を廻るという行事です。
どうやら古来の「二所」とは二権現、つまり伊豆山神社と箱根神社の二つだけだったのに対して、頼朝がよほど祭礼の日の夜襲で挙兵に成功したことが嬉しかったのか、この三嶋大社を追加したようです。
それは、大行列が鎌倉の鶴岡八幡宮から出発し、多くの御家人が随行した大規模なものでした。この慣習は、鎌倉時代を通して行われます。それによって、三嶋大社も御家人の間でも有名になっていったのでしょう。
さて、三嶋大社にも頼朝と政子の腰掛椅子があります。流刑人だった頃の頼朝が、政子を三嶋大社の祭礼で見かけて、ちょっといいなと思っていたなんて、話があるかもしれませんね。
また、この大社の名物に「福太郎」という餅があります。「お田打ち神事」に登場する「福太郎」は福のタネを蒔き、授ける者として人気があるようです。
その姿をわらび餅と餡で表現したようなのですが、どう見ても「リーゼントの兄ちゃん」に見えませんか?形はともかく、甘さを抑えた上品な美味しい和菓子ですよ。
石橋山合戦高源寺、与一塚・文三堂、箱根神社、土肥の大椙、しとどの窟、真鶴脱出
高源寺
高源寺は、伊豆の北側、函南駅から北東へ約2kmのところにあるお寺です。山木判官平兼隆を倒して、平家打倒の狼煙を上げた頼朝。挙兵が成功した後の彼らの行動も、勿論、十分に練って、また関係各所と連絡をとってありました。
まずは、相模国の有力豪族、三浦一族との合流による軍勢拡大。三十騎程度の頼朝挙兵軍、早くそれなりの規模の兵にしない限り安心できません。一応、挙兵前に伊豆方面で、いくつかの有力者には声を掛けてあり、数日で三百騎程度までは増大していました。
しかし、この弱小な反乱軍を叩き潰そうとする平家方の敵と相見える前に、数千規模にはしておきたいと考えていたのです。
事前に三浦一族の三浦義明には、三嶋神社の祭礼時に挙兵する旨連絡してあります。三浦一族も頼朝が挙兵する当日までは、拠である三浦半島の衣笠城で軍備を整え、挙兵日と同日、西へ伊豆の頼朝目指して進軍するのです。
大事なことは、挙兵前に三浦一族が進軍してはならないということです。なぜなら、その軍事行動で相模国の平家方に頼朝挙兵がバレてしまったら、逆に頼朝の挙兵そのものが失敗に終わる可能性があるからです。
ですので、挙兵日から行動を起こすのですが、実は、この年のこの時期、台風の影響でしょうか、挙兵時にも参加予定の有力武将、佐々木兄弟の到着が河川の氾濫等によって遅参し、頼朝がハラハラする場面もあったのです。また、三浦軍五百が西に移動するにも境川、相模川、酒匂川の増水により行軍が遅れに遅れます。
待ちきれなくなった頼朝たちは、陣立てをし、約三百騎集まったところで、箱根の外輪山の麓伝いに、小田原から相模国に出て三浦軍と合流することにしたのです。その陣立てをしたのが、この高源寺です。高源寺には頼朝に関する伝承、「実無し椎」や「怪僧、文覚や比企尼との密会場所」「頼朝公旗掛けの松」など、いくつかありますが「実無し椎」のお話をご紹介します。
あるとき、椎の木の下で頼朝がうたたねをしておりました。すると頼朝の顔面に椎の実がポトッと落ちたのです。まあ経験ある方はわかると思うのですが植物の実のような軽いものでも、高いところから顔面に直撃すると痛いというか不快です。特に気持ちよくうたたねをしている最中に顔面直撃ですと、気分は急転直下、超不快になるのです。このときの頼朝もそうでした。頼朝は目の前の椎の木に向かって言います。
「若し椎なるとも実のらざれ」
するとその椎の木には実がならなくなり、高源寺の周囲の人々は──椎という植物まで自分の意向に従わせるとは……。これは敵軍が降伏する徴候だ。やはり頼朝公はただ人ではない──と感心するのです。ただ、この話によく似た話は、頼朝が房総半島に上陸するときにもあるのです。またそちらの伝承も次回以降、お話しします。
石橋山古戦場(与一塚、文三堂)
三浦軍と早く合流しようと、高源寺を出発した頼朝軍三百。箱根山外輪山の南側を進軍し、熱海辺りから相模湾沿いに出ます。そして土肥実平の所領、湯河原まで駒を進めるのです。
ところが山木判官を倒して源氏の旗揚げを頼朝がする直前から、「これはキナ臭い!」と動き出したのが、やはり相模国は茅ケ崎辺りを所領とする大庭景親。彼は弟の俣野景久と協働し、武蔵国の畠山重忠、熊谷直実らも加勢し、軍勢三千を三浦軍より早く動かします。
八重姫の一件で頼朝に大いに恨みのある伊東祐親軍三百も伊豆・伊東から進軍してきます。
合流するはずの三浦軍は、頼朝軍にあとわずかというところで、先に述べた酒匂川の氾濫によって渡河できず足止めを食らっています。
後ろから伊東軍も迫ってきており、頼朝軍は待ったなしの状況です。結果、小田原一歩手前の石橋山という場所で大庭軍三千と対決することになるのです。
大庭軍も背後に迫る三浦軍がいつ渡河して、後ろから襲われるかわかりません。両軍とも背後からの軍を恐れ、焦っていたのです。戦闘は対峙が始まった夜中、待ったなしの暴風雨の中で開始されました。この合戦、北条時政と大庭景親の毒舌合戦から始まったと言われています(『平家物語』)。
まず、大庭景親は「後三年の役で、右目を射貫かれても大活躍した鎌倉景政の孫、大庭景親なりー」と名乗りを上げます。
これに対し、北条時政は自身の名乗りの後に、毒づきます。「鎌倉景政公は、八幡太郎義家(源義家)公、つまり頼朝公のご先祖に仕え、後三年合戦で大活躍させて貰ったはず。その大恩を大庭景親は忘れ、頼朝公に弓を引くのか!」と。大庭景親も負けていません。
「昔の主も今は敵であり、平家には山より高く、海より深い御恩を今頂いている! 時政こそ、今まで平清盛公に取り立てて貰いながら、平家に刃向かうとは忠義に悖る」と。
どちらもどちらですが、こんな感じで石橋山合戦は開始されるのです。
この闇夜の暴風雨、実は頼朝軍にはある意味有利に働きました。十倍の敵に対し、籠城もせずに野外戦で勝てる訳がありません。逃げるのが一番の上策でしょう。闇夜の暴風雨なら逃げても相手から見つかりにくいのです。
頼朝は戦場から箱根外輪山の頂方面へ逃げるのです。
闇夜の暴風では勾配が一番、方角の頼りになるのです。彼らは戦いながら逃げ、箱根外輪山の山頂へ登り、芦ノ湖湖畔の箱根神社へと逃走します。
ただ、そう易々と逃走できたのではありません。圧倒的な数の敵と戦い、落命した頼朝軍も多々居ました。その中の有名な話に三浦一族が関係しています。三浦義明の援軍が到着できないことに、義明の弟、岡崎義実が責任を感じ、頼朝に言います。
「私の息子、佐奈田与一に、本戦の先陣の名誉をお与えください」
佐奈田与一は、このとき討死を覚悟し、五十七歳になる家来、文三家安に自分亡き後の母と妻子の世話を頼みます。しかし、文三は与一を二歳の幼少より育ててきた親しみの情により、自分も与一の加勢をすると言って聞きません。そこで、与一も根負けし、文三と一緒に、寡兵十五騎で、大庭景親の軍に飛び込み、乱闘をするのです。
乱闘のうちに、大庭景親の弟、俣野景久と一騎打ちになります。二人は組討ち状態となり、石橋山の急斜面を上になったり下になったりしながら、転げ落ちて行きます。
しかし最後は、与一が俣野景久の上になって、なんとか抑えつけます。
「文三っ!」と、与一は文三の助太刀を求めます。
ところが痰が絡んで、声が出ないのです。逆に俣野景久の危機とばかりに、平家方の長尾新六が駆けつけます。
与一はもはや猶予ならんとばかりに、火事場の馬鹿力で、懸命に抑えつけながら、刀を抜いて刺し殺そうとします。しかし鞘から刀が抜けません。今までの乱闘で切り捨てた敵の血潮糊で抜けなくなったのです。逆に長尾新六に背後から襲われた与一は、首を掻き切られてしまうのです。現在、この与一が落命した戦場には、佐奈田霊社と与一塚が建っています。
彼が最期、痰が絡んで声が出なかったことにちなみ、この霊社は、喉の痛みや喘息に霊験があると言います。
また文三は、主人の助太刀ができなかったことに深い後悔を覚え、敵陣に単騎切り込み八人を討ち取って壮絶な戦死を遂げました。これを讃え、戦場には文三堂という祠も建っています。
余談になりますが、頼朝は先に述べた「二所詣」の帰りに、この石橋山合戦場の与一と文三家安の墓にも詣でて、深い感謝の気持ちを現したと言います。
箱根神社
さて、石橋山合戦で敗北した頼朝が、闇夜にまぎれて逃走したルートがこの地図です。
闇夜の中、箱根外輪山を、懸命によじ登った頼朝らは箱根・芦ノ湖湖畔にある箱根神社に辿り着きます。
箱根神社は、すでにこの時より約百年前の源頼義の頃から、源氏とは縁が深く、頼朝も崇敬し、伊豆流刑中も何度か参拝しているようです(『吾妻鏡』)。ですので、この石橋山合戦の敗走時も、箱根神社別当と頼朝は懇意だったこともあり、平家側から匿われ、命拾いをするのです。
そんな感謝もあり、先に述べましたが、今まで述べてきた伊豆神社、箱根神社、三嶋大社の同時巡礼は「二所詣」と呼ばれ、天下をとった頼朝が文治4年(1188)に大願成就の感謝の気持ちを表して始めたのをきっかけに、鎌倉幕府創生の初心を忘れてはいけないという認識の元、幕府の恒例行事となりました。
伊豆神社でも伊東祐親の魔の手から逃れ、箱根神社は石橋山合戦から逃れ、三嶋大社は旗揚げ時に祭礼日の活用と、初期の頼朝の命懸けの行動を支えた三社ですね。
また、頼朝とゆかりの深い箱根神社には「安産杉」と呼ばれる御神木があります。
この樹齢千年を超える大杉は古くから霊妙杉として崇められ、根幹は母胎の象徴とみなされて子孫繁栄・安産を祈願する木として信仰されていました。
養和2年(1182)8月11日夜、政子が産気づくと、頼朝は奉幣使を箱根神社に使わせて安産祈願を行ったところ、翌日に二代将軍、頼家が無事誕生。
建久3年(1192)には、神馬を奉納して政子の安産祈願を行い、三代将軍、実朝が無事誕生したと『吾妻鏡』には記されているのです。
このような歴史的な大物の安産祈願の対象となった安産杉、「政子の安産杉」とも呼ばれ、現在でも安産祈願の人が絶えないようですね。
土肥の大椙・しとどの窟
話を戻します。
石橋山合戦の翌日、箱根神社の別当から、頼朝を探して山狩りが始まったとの話を聞いた頼朝らは、この箱根神社にも平家軍の探索が入るのは時間の問題だと悟り、別当に礼を言い、早々に神社を退去します。
とりあえず、頼朝と同行している土肥実平の所領する土地に「しとどの窟」と云う大きな洞窟があるので、そこで一時的に身を隠し、その間に至急三浦義明と連絡を取り、この戦場一帯から脱出する方法を考えようということになりました(石橋山合戦からの頼朝逃走ルートの地図参照)。
そこで、頼朝らは、山狩り最中の山中を敵との遭遇に気をつけながら、大観山経由で、急ぎ「しとどの窟」を目指します。
ところが、山狩りは結構厳しく、右ページの地図の「土肥の大椙」という場所で、平家の山狩り部隊と出くわしそうになります。
慌てて、土肥実平等が、近くの大杉の根本の洞を探してきます。そして息を潜めて、その洞で山狩り部隊が去るのを待ちます。
と、そのとき、誰かが洞の入口から、頼朝達を覗き込みます。
梶原景時で、大庭軍側の武将です。彼は頼朝の顔を見ると、ニヤッとします。そして直ぐ出て行くと、「おーい!」と仲間に向かって叫びました。頼朝は「南無三!」とばかりに、懐に忍ばせていた正観音を強く握りしめます。
次の瞬間、梶原景時は「こっちには居そうに無いぞー」と叫ぶのです。
かなり山の中にあり一人で行くのは危険でした。
梶原景時は、その後、平家から源氏側へ鞍替えしますが、頼朝は、この時の彼の対応を実に重く見て、重要なポストに付けます。そして義経が平家を壇ノ浦に滅ぼすまでの監視役や、その後も、色々な政治的な駆け引きに彼を重用したのです。
「しとどの窟」で北条時政や、わずかな味方と一緒になった頼朝は、土肥実平を通じ、三浦一族と何とか連絡を取ります。
三浦義明らも、酒匂川の大水に停滞している最中に頼朝軍が散り散りになったと聞き、失望するも衣笠城に引き揚げます。
ここで頼朝一行は数日隠れ、海上脱出の機会を伺った。
途中、土肥実平からの伝令で頼朝存命の報を聞くと、「土肥殿の領有地から海上に逃げ、安房(房総半島南端部)へ上陸するが上策」と進言するのです。
海上に逃れるのであれば、相模湾伝いに三浦半島に上陸し、三浦軍と合流する方法も考えられますが、石橋山合戦で平家に歯向かう三浦一族とばれてしまったからには、かなりの平家側の関東武者が押し寄せ、頼朝殿を擁立したまま衣笠城を守り切る自信が三浦一族にはありません。
いざとなったら、三浦一族も自分たちの良港・浦賀から東京湾(江戸湾)を横切って、安房に逃げようと考えていました。安房は房総半島ではありますが、三浦一族は古くから房総半島南端部分は水軍等で実質的な統治をしていたのです。
真鶴脱出
安房へ海上を脱出、ということに決しましたが、土肥実平の領土も平家の武者狩りが走り回っており、簡単には脱出決行をするのは難しいのです。
詰めが甘ければ、梶原景時に見逃してもらっても、他の武将に見つかり、大庭景親や伊東祐親らの前にしょっ引いていかれてしまいます。舟で海上に出る直前までどこかに隠れている必要があるのです。その直前まで隠れていた場所が「真鶴のしとどの窟」です。
ここも「しとどの窟」と湯河原と同じ名前がついています。「しとど」とは鳥の名前で、どちらの窟にも、頼朝らがこの窟を覗くと、しとどが飛び立ったという伝説があります。
ここの窟はかなり小さい。波に削られて小さくなっていったという。
そして安房に向けて舟を出した浜がこちら。
頼朝ら七騎が舟で海上へ脱出、房総半島の安房へ向かう。
浜の脇には石碑も立っています。
さて、安房へ渡った頼朝の再起は如何に! 後編に続きます!
長文ご精読ありがとうございました。
名木伝承データベース / 基本情報
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名称:頼朝杉跡
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樹種:スギ
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状態:倒木
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樹齢:推定800年以上
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樹高:36m(倒木前)
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幹周り:9.7m(倒木前)
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保護・指定:国指定天然記念物(倒木前)
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所在地:静岡県島田市
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