2023.08.25
家康の大樹 其の壱~人質竹千代、若宮八幡宮の楠に登り駿府湾を眺む~

目次
雪斎による安祥城攻略と人質交換

さて、家康。幼名を竹千代(松平竹千代)と言いますが、彼は、岡崎は矢作川(やはぎがわ)の畔(ほとり)にある岡崎城で生まれます。岡崎城には、家康の誕生井戸等の遺構が残っています。(写真②③)

三河の一豪族であった松平氏が、安祥城からこの岡崎の地に拠点を移したのは、竹千代の祖父・松平清康(きよやす)です。安祥松平氏の中興の祖である清康爺ちゃんを竹千代はたいそう尊敬していたようで、諱(いみな)「康」を貰い、元康、家康と名前を変えるのです。
ただ、今回の物語は元康の1つ前の名前「元信」という人質先の烏帽子親である今川義元の諱「元」を貰っている時のことを書いていますので、元信と書かせてください。
天文16年(1547年)9月、岡崎城は隣国・尾張(愛知)の織田氏に攻略されます。この時、竹千代の父・松平広忠(ひろただ)は、若干6歳の竹千代を織田方に差し出すことで恭順の意を示すのです。(「本成寺文書」より。諸説あり。)
ところが、2年後の天文18年(1549年)、松平家の後ろ盾となっている今川家の軍師・太原雪斎が織田の安祥城を攻め、城主・織田信広(信長の兄)を生け捕ります。(写真④)

そして、庶子である信広と竹千代の人質交換を織田信秀(信長の父)に持ち掛けるのです。
安祥城は岡崎城の西隣にあり、清康の代までは、三河松平氏の居城だったという聖地なので、岡崎城の三河衆(三河武士)が懸命に織田方より奪回したということもあるのでしょう。ただ、安祥城を落とし、織田方の人質を取れば、竹千代が人質交換で戻ってくるかもしれない、それは三河松平氏の当主復活という、三河衆の悲願達成となる期待があったことは想像に難くないです。この時の約8か月前に三河松平家当主・広忠(竹千代の父)は亡くなっているのです。
雪斎はこの三河衆の心理を上手く活用することで、織田軍への強烈な先鋒として彼らを当たらせるのです。元々三河衆は勇猛果敢なことで有名でしたから、明確なモチベーションを与えれば、これほど強力なものはなく、今川軍の先陣として死を厭わず、ガンガン織田軍に向かっていくのです。
これでは織田軍はたまらないですね。ちなみに、この城を失ったことで西三河における織田氏の勢力は著しく減退します。流石、軍師・雪斎です。
若宮八幡宮の大楠

この人質交換で、当初予定されていた通りに、竹千代は今川家預かりの人質となり、駿府(静岡市)の今川館(現、駿府城)で幼少期を過ごします。この時、今川館から北西にあった臨済寺という雪斎が開いた寺に、竹千代は帝王学等を学びに通っていました。(写真⑤)
その学びの帰り道に、竹千代が良く木登りをしたのが若宮八幡宮のクスノキです。(写真①) 当時まだ10歳前後の竹千代、まだ幼く、無心にこの木をするすると登ったのでしょう。想定樹齢1000年と言われていますから、竹千代が登った時既に樹齢500年以上、木登りにはもってこいですね。
子供の頃、木登りを経験された方なら分かると思うのですが、子供にとって木登りは、大きな達成感を得られるひとつの手段ですね。竹千代にとっても、このクスの大木に上り駿府を一望することは、後に徳川家康として日本を統一することに繋がる最初に達成感を覚えた行為だったのではないでしょうか。駿府は、このクスのすぐ横を安部川が流れ、東の駿河湾も近く、また山も北や西に迫っています。この木に登ればまるでそれらを掌握したような錯覚を起こす景色が広がっていたのでしょう。駿府の自然が竹千代に教える帝王学だったのかもしれません。
義元の与えた試練
そんな竹千代も駿府の今川館で14歳になると今川義元から「元」の諱を受けて、松平元信(もとのぶ)として元服します。そして翌年、義元は、元信の岡崎城への初めて里帰りを赦すのです。というより、これを元信へ勧めます。この里帰りは、実は義元の元信に対する試練だったという説があります。この時が最初の、家康(この時は元信、以後元信で統一します。)の1つの大きな「どうする?」という決断を迫られるものでした。
元信の元服直後、義元は、雪斎といつもの碁を打ちながら、元信の資質について雪斎に尋ねます。
「従順で柔軟、物の理(ことわり)を深く理解できる大器にございます。」
と雪斎が語る元信像について、義元は続けて次のような質問をします。
「器量があるのはぬしの見立ての通りだろう。『信頼』が問題なのだ。従順なのは元信の本心からなのだろうか。その大器を今川家のために発揮してくれるのか、はたまた岡崎から人質として来ているとの認識から、いつか今川家に歯向かう三河の巨人となるのかぞ。前者になってほしいからこそ、私は自分の諱の義元の「元」と「信頼」の「信」をつけて「元信」という元服名を与えたのだが。前者であれば、今川家の片腕としてこんなに心強いことはない。後者であれば・・・」
「ふふ、大器であればあるほど、今川家にとって困ったことになりもうすな。」
と雪斎は碁を打ちながら続けます。(絵⑥)

「1つだけ養育している中で気になったことがございます。あれは確か竹千代が11歳くらいの話でございます。梟雄(きょうゆう)になってはならないことを講釈したときのこと。私が梟雄とは何かと竹千代に尋ねたところ、彼は『意地の悪いずるい主(あるじ)のことです。』と答えました。
そこで私が『必ずしもズルいとは言えない。梟雄とは廻りの人誰をも信用できない主。それが故に自分の臣下の心を平気で踏みにじる。先日、村木砦で初陣を飾った隣国の織田信長は、この梟雄に成りえる資質が見受けられる。竹千代は梟雄になってはならぬぞ。』と話すと、しばらくじっと自分の膝を見つめて何かを考えた後、何故かボロボロと涙を流すのです。
噂では織田の人質になっていた2年間、信長と竹千代は交流があったと聞きましたが、この竹千代の反応を見て、竹千代は信長殿を信頼しきっているのか、もしくは過剰に恐れているかのどちらかであろうと感じた次第です。」(絵⑦)

「ふむ、確かに竹千代が信長を怖れるのか、深い信頼感を幼少の頃に固めたのかでは、今川家にとっては、雲と泥の違いだからな。雪斎、これを確かめる良い案は無いか。今川家にとって問題の芽は早くに摘んでおいた方が良いからな。」
と義元がまたパチリと碁を置き、顔を上げると、雪斎も顔を上げてニヤリとします。
「御屋形様も、梟雄になってはなりませぬぞ。」
義元もまたニヤリとします。雪斎は続けます。
「元服した一人前の当主となったという事由で、元信殿にはこの時機に岡崎へ里帰りさせてはいかがかと。」
「ふむ。」
義元は黙り、腕組をし、目を閉じて考えています。雪斎も碁盤をじっと見つめて黙っています。
長い静寂を破って、パチリと碁を置いたのは雪斎です。義元はハッとして、碁盤を見つめながら、
「我が今川の家臣たちは反対するじゃろうの。元信を三河へ返すのは時期尚早であると。」
義元は更に続けます。
「確かに今、元信を三河に返せば、信長が動く可能性が高い。もし信長と元信が人質時代に信頼関係を構築していたのであれば、動いた信長に同調し、元信が三河衆を引き連れて織田方へ逃げ去る可能性もまた高い。元信にその気が無くとも、三河に残している松平家子飼いの家臣たちがそうしようとする。奴らは長い今川支配の辛酸をなめつくしておるからの。」
「ではやめますか。」
と雪斎は今置いた碁を取り除こうとすると、
「いや、待て。ぬしは、こう言いたいのだろう?確かに元信は元服したての14歳とは言え、三河衆をまとめ上げるだけの器量はあると踏んでいる。なので三河衆に押し切られて信長へ靡くことは考えにくい。むしろ元信自身が信長との過去絆で靡くという可能性があるのであれば、今、その機会を元信に与えてみてはどうかと。」
「御明察!」
「よし分かった。元信を取り込もうとする信長は、今川領の尾張への橋頭堡である大高城あたりを衝くであろう。その時、元信がどう動くか。
信長に靡けば、向後の憂いを断つためにも徹底的に潰してしまおう。もし靡かず留まれば、今後元信は今川家の礎を支える重要な人材となろう。元信が岡崎に向かった直後に後追いの兵力を準備しよう。
若干14歳の家康(元信)、最初の試練が始まります。

弐へつづく
名木伝承データベース / 基本情報

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名称:若宮八幡宮の大クス
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樹種:クスノキ
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状態:生存
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樹齢:推定2,000年以上
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樹高:26m
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幹周り:11m
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保護・指定:静岡市指定天然記念物
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所在地:静岡県静岡市葵区浅間町
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